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酒米・山田錦80年の軌跡! 酒造りの様々な工程すべてにおいて総合的に優れた特性を発揮する酒米界のレジェンド

酒米・山田錦80年の軌跡! 酒造りの様々な工程すべてにおいて総合的に優れた特性を発揮する酒米界のレジェンド

世界的な日本食ブームで、注目を集めている日本酒だが、とりわけ香り高くすっきりした味わいの大吟醸が海外のグルメたちの舌をうならせている。海外のごはんファンも、同じお米から醸造される「SAKE」と日本食の相性の良さを認めたといえるのだ。
大吟醸は玄米の50%以上を糠にして造られる贅沢な酒だが、この大吟醸造りに欠かせないのが山田錦という酒米(酒造好適米)。実はこの品種のデビューは、約80年前。それ以降、杜氏(酒造技術者)たちの腕を存分に発揮させ続けてきたレジェンドなのである。その優れた特徴から「酒米のキング」「白いダイヤモンド」などとも呼ばれ、今なお酒米の最高峰に君臨している。なぜ山田錦は、これほどまでに酒造関係者に愛され、美味しい日本酒を生んできたのか? 「酒米界の魚沼産コシヒカリ」ともいわれ、和食に合うからこそ愛され続けてきた山田錦が秘密の解明は、ごはんファンとしては見逃せない話題なのである。

デビュー当初は、評価はあまりいいとはいえなかった!

もともと兵庫県は江戸時代より、伊丹や灘五郷などに代表されるように、酒造りが盛んな地域。その原料となる酒米(酒造好適米)の栽培にも力が入れられていたのは、言わずもがなである。

山田錦栽培田における村米の旗

山田錦栽培田における村米の旗

明治20年頃になると、灘などの酒蔵は、酒米を安定的に確保するために、「村米制度」といわれる一種の契約栽培――特定の集落と酒蔵が契約し、良質な酒米を安定的に生産する代わりに、酒蔵は粳米より高い価格で、その村から一定量を買い上げるというもの――を結んでいたという。
こうした環境の中で、栽培農家と酒蔵双方が、より良い酒米の生産を目指していくことになる。時を同じくして、明治26年には政府が国立農事試験場を設立。近代的な品種改良を国家事業として展開するようになったのだ。
兵庫県でも、翌年に県立農事試験場が設立され、国と歩調を合わせ、県の各地方に適した優良品種の選定が始まっている。そうした中、明治45年に兵庫県が初めて酒米の奨励品種として指定されたのが、山田穂と渡船。のちの山田錦へとつながる品種だったのである。
しかし酒蔵も生産農家からは、それらの品種に満足することなく、さらに酒造に適した米の品種育成を望む声を上がっていたようだ。それを受け、大正12年、兵庫県農試の明石本場で、山田穂を母本、短稈渡船を父本とした人工交配が行なわれることになった。これこそが山田錦なのである。

戦前の農事試験場本館(外観)

戦前の農事試験場本館(外観)

母本の山田穂は明治10年頃に、現在の兵庫県多可町中区東安田で山田勢三郎が発見し、普及させた酒米品種(山田穂の由来には他に2説あり)。明治、大正と兵庫県の主力酒米品種の一つとなった。特性は山田錦より長稈で粒大はやや小さく、心白の発現も少し少ないというもの。一方の短稈渡船は滋賀県で育成された品種で、滋賀渡船2号のことである。稈長は短く、粒大は山田錦よりやや小さく、心白は少ない品種だった。
山田錦は昭和6年には、「山渡 50-7」という系統名がつけられ、翌年からは、明石本場に加え、酒造米試験地でも生産力検定試験を開始。その結果、安定した収量と酒造適性が認められたことで、昭和11年に奨励品種に指定されている。
しかし、山田錦がすぐに、酒米として華々しい活躍を示したわけではなかった。むしろ肝心の灘五郷の蔵元などからの評価は低かったという。
「伝え聞きですが、山田錦デビュー以前は、蔵元では品種特性は良く分かりませんが、三島雄町や畿内雄町といった雄町系の品種(高槻市や茨木市などの大阪府北部産の米、「中上米」(ちゅうがみまい)と呼ばれていた)の評価が高かったようです。

左から山田穂、山田錦、渡船の稲穂

左から山田穂、山田錦、渡船の稲穂

一方山田錦は、デビュー当時は米が柔らかいなどの評価があり、杜氏が扱いにくかったようです」と、山田錦デビュー当時の状況を、山田錦の原原種管理や研究を行っている兵庫県立農林水産技術総合センター・農業技術センター/農産園芸部 池上勝研究主幹が説明している。
その状況が一変したのは、昭和15年のこと。戦争が激しくなる中、この年に臨時米穀配給統制規則が制定され、県外への米の供出が禁止され、大阪の米が兵庫県には入らなくなった。そのため、灘五郷など兵庫県の蔵元は兵庫県内産の米しか原料として使用できないようになり、必然的に山田錦での酒造りの機会が多くなっていったのである。
「当初は柔らかいといわれていましたが、蔵元の方でも山田錦に合せた酒造りに改善することで対応できるようになり、山田錦が認められるようになったと聞いております」
今でこそ、酒米の代名詞ともなっている山田錦ではあるが、戦争、そして灘五郷の蔵元の職人たちの状況に対応する技がなかったなら、ここまで脚光を浴びることがなく、消えていく運命が待っていたのかもしれない。

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