昭和51年に正式導入された米飯給食、郷土料理などを取り入れた多彩なメニュー、「リクエスト給食」「卒業給食」「アウトドア給食」など、新しいスタイルの提供方法が登場し、子どもたちを笑顔いっぱいにしている学校給食。戦後の困難な食糧事情のもと、全国に広がっていった学校給食ですが、平成17年の食育基本法の制定などにより、今は大きく様変わりしていたのです。
■学校給食では、食教育のさらなる充実が求められるように!
近年、偏った栄養摂取、朝食欠食など食生活の乱れや肥満・ヤセ傾向など、子どもたちの健康を取り巻く問題が深刻化。また、食を通じて自分が育った地域等を理解することや、食文化の継承を図ることなどが重要な課題になっています。
こうした現状を踏まえ、平成17年に食育基本法や栄養教諭制度、平成18年に食育推進基本計画が制定され、学校給食は食育の根幹と位置付け学校教育活動の一環として実施されるようになっていったのです。
そして、平成 21 年に改正された学校給食法では、学校給食の目的は、「学校給食が児童及び生徒の心身の健全な発達に資するもの」「学校給食の普及充実及び学校における食育の推進を図ることを目的とする」と記され、食教育のさらなる充実が求められるようになってきました。また、この目的を実現するためには、次の7つの目標が達成されるよう努めなければならないとされています。
しかし、こんな立派なお題目を唱えても、実際に給食を食べる子どもたちが「美味しい」と感じてくれなくては、その目標も達成されません。そこで現在は、給食や食教育に携わる栄養教諭、学校栄養職員、給食調理員たちは、一丸となって限られた予算の中で日夜メニューづくりや新しい提供方法などを模索し、奔走しているのです。
そんな中で一部の学校では、児童数の減少により空き教室が生まれたため、そこを給食専用に使用する「ランチルーム給食」、校庭など外で食べる「アウトドア給食」、別の学年の児童と一緒に食べる「交流給食」などといった新しいスタイルの提供方法による学校給食なども登場してきました。まさに3の目標に適応した提供方法ということができます。
また、児童たちのもう一度食べたい給食メニューを実現した「リクエスト給食」、生徒が自分の好きなおかずやデザートなどを選べる「バイキング給食*」、卒業の思い出に提供される「卒業給食」、和食や洋食のマナーが学べる「マナー給食」なども実施されるようになってきています。
今、学校給食は1の児童の「適切な栄養の摂取による健康の保持増進を図ること」だけでなく、様々な食に関する教育を実践する場所になっているといっても過言ではないのです。
そんな学校給食ですが、日本においてどんな歴史を歩んできたのか? 簡単に振り返ってみることにしましょう。
■食料難の時代、子どもたちの胃袋を満たした学校給食
日本最初の学校給食は、明治時代まで遡りますが、明治~戦前までは、現在のような学校給食法などの法整備がされているわけでもなく、篤志家の援助により、貧困児童を救うために、ごく一部の学校で実施されていたに過ぎません。
そして戦後になり、学校給食は困難な食糧事情の下で、主として経済的困窮と食糧不足から児童生徒を救済するための措置として一部地域で実施され、全国へと広がっていくことに。ただし、全国すべての小学校を対象にした学校給食の実施は昭和27年、学校給食法の制定は昭和29年を待たなくてはなりませんでした。
昭和20年代、30年代の給食メニューの主役といえば、コッペパンと脱脂粉乳。
この脱脂粉乳は、保存性がよく栄養価が高いことから当時の学校給食に用いられたとされていますが、今のスキムミルクと呼ばれているものとは別物で、当時の学校給食経験者(現在の50代後半より上の年代)は、これを「美味しい!」と飲んでいた人はほとんどいなかったようです。
またコッペパンにしても、現代のものとは違い、けして美味しいと呼べるものではなかったといわれています。コッペパンに納豆、刻みネギを浮かべた脱脂粉乳という取り合わせもあったそうです。
とはいっても、学校給食は、日本が高度成長を遂げる前の食料難の時代、子どもたちの胃袋を満たすために、大きな役割を果たしたことは言わずもがななのです。