愛知県農試のユニークで果敢な取組み 米の品種改良に大きな功績を残したその精神は、日本晴~あさひの夢、そして現在へとつながっている

コシヒカリにその座を譲るまで、全国作付面積で1位を誇っていたのが日本晴であった。この超大物品種の育種を行なったのは、東北・北陸各県ではなく、まったく「米どころ」というイメージがない愛知県農業総合試験場(愛知県農試)。そして現在、愛知県のほか、栃木県、山梨県、岐阜県や群馬県などで作付けされている、あさひの夢なども、この愛知県農試生まれなのである。

傑出したものはなかったが、すべてにバランスがとれていた日本晴

 ひと昔前、わが国の水田は、日本晴で埋め尽くされていたといっても過言ではない。昭和45年~53年の9年間、全国作付面積で1位。昭和51年には36万haにまで達し、過去最高を更新(それまでは陸羽132号で23万ha)。この記録は、60年にコシヒカリに破られたが、それまでは第1位を保持していたのである。
 良質多収でどこでも作りやすいため広域適応性品種といわれ、福島から宮崎までの31都府県で栽培されていた。その日本晴の強みは、早生、多収、強稈、耐病性にあり、しかも、良質で食味も良かった点にあった。

愛知県農業総合試験場の外観
 愛知県農業総合試験場・作物研究部/杉浦和彦主任研究員は、日本晴の特性を次のように語っている。
「良食味がそれほど叫ばれていない時代にあって、日本晴は非常にバランスのとれた品種でした。コシヒカリには及ばないが良食味。そして耐肥性(肥料を多く施せる)にも優れたため多収であったが、超多収でなかった。また、いもち病、白葉枯病などの病気に対して総合的な強さも持っていた。傑出したものがない代わりに、良質で安定していた品種。また、姿が美しいというのも特徴でした」

 昔の品種は、葉が垂れてしまい受光態勢が悪く、光合成が十分行なわれない品種も多かったという。コシヒカリやササニシキなどに関しても、食味は非常に良いが、稈が長いため倒れやすく、多収は望めず、病気にも弱いという欠点をもっていた。そのため、消費者には好まれても、農家泣かせの品種だったともいえるのだ。もちろん栽培技術の進歩によって、それらがある程度改善されていったからこそ、今のコシヒカリがあるのだが……。
 その点、日本晴は稈が短く葉が立つという、稲としては「理想的な草型」をしていた。そのため作りやすく農家に歓迎される品種だった。また良質米のスタンダードとしての傑であり、登場以来、日本中の多く農試において、育種素材として採用されることが多かったのである。現在、九州や西日本を中心に多く作付けされている西の横綱・ヒノヒカリはコシヒカリと黄金晴(日本晴が母本)の交配で生まれたもの。日本晴の子孫の代表的な品種となっている。
 

主要品種の作付シェアの推移

 

 

日本晴の育種には常識破りの手法が用いられた

 日本晴は昭和38年、愛知県農試で香村敏郎(のちの場長、現在は退任)らによって育成された。交配が始まったのが同32年なので、わずか6年で育成されたことになる。通常10数年かかるといわれている新品種の育成を6年という短期間で成し遂げた裏には、止むに止まれぬ理由と、隠された誕生秘話があったのである。


愛知県農試 香村敏郎氏
 日本晴の交配が行なわれた昭和30年前後は、稲作の大きな変革期にあたっている。長野県軽井沢の篤農家・荻原豊次によって保温折衷苗代が開発され、苗の早植化が進んだ。愛知県でも苗代、田植えの時期が6月下旬から5月下旬にと、一か月ほど早まることに。しかし、その頃の愛知県の主力品種は、ほとんどが晩生で、中生に金南風などがあった程度。早生にいい品種はなかった。農家からは早生の品種を望む声が強まり、農試としても早生の育成を急がざると得なくなったのである。
 しかもこの時期、愛知県農試においては、運悪く優良品種の育成が滞っていた。そのため、農試場長の小島政一からは育種技術者の奮起を促す意味で、「圃場でザリガニ取りをしているのか、お前らは!」と強い叱咤が飛んだ。それに対し、育種担当だった香村は、「育種は理屈ではない。優良品種を出さなければ意味がない、と痛感した」と、後日、日本晴の育種について書かれた記事のなかで語っている。
 昭和32年の愛知県農試で行なわれた交配数は120を数えており、その約8割が早生を狙ったものと、記録に残っている。「下手な鉄砲も数撃ちゃ、当たる」ではないが、それだけ早生の優良品種育成が急務あったという証左である。
  その中で、最終的に日本晴の両親となったのは、ヤマビコと幸風であった。
 母本となったヤマビコは、昭和22年に東海近畿農試で農林22号と中京旭を親として交配され、同33年に新品種として登録されている。両親とも旭(*昭和初期、西日本一帯に広く普及した品種。大粒で当時としては食味が抜群に良かったため市場評価も極めて高く一時代を築いたが、倒伏しやすく、モミが脱粒しやすいことから徐々に姿を消していった)の系列なので食味が良く、また農林22号に似て短稈で、いもち病に強い特性をもつ早生である。
 これに対し父本の幸風は、昭和28年に愛知県農試で新山吹と中穣2号を親として交配されたもので、同38年に品種登録されている。比較的良質で、白葉枯病に強いという特性を持っていた。
 ここで注目したいのが、両親の品種登録された年。日本晴の交配が始まった昭和32年には、まだ両親とも品種登録されていなかったのである。ヤマビコは奨励品種試験に供試中の系統だったし、幸風に至っては、まだ雑種4代の未固定系統に過ぎなかった。
 若い世代での交配について、当時の育種担当だった香村は「思いつきの育種」と語り、常識破りの手法とも評されたが、実は愛知県農試における育種では、ごく普通に行なわれてきた、伝統的ともいえる手法だったのである。

「型破り」といわれたが、実は合理性をもった手法だった

愛知県農試の大育種家・岩槻信治氏
 このユニークな手法を用い、大正から昭和前半まで多くの大物品種を作り上げ、「神様」と敬慕されたのが愛知県農試の大育種家・岩槻信治である。彼が育成した稲の新品種は30余種。多収だった愛知旭、千本旭、金南風、 いもち病に強い双葉、白葉枯病抵抗性の強い黄玉などが上げられる。
 国立農試を頂点とする品種改良の主流は、世代が進んで遺伝的分離がなくなり、しっかりと種として固定してから次の交配を行う、オーソドックスであり紳士的な育種法であった。しかし、彼はその主流となっていた育種法には捉われることはなかった。
若い世代の分離が激しい段階で、次の交配の親に使うという彼の手法は、一見乱暴に見えるが「極めて合理性をもった手法」と、最近では再評価が進んでいる。
 その合理性とは―――。例えば、水稲品種に陸稲を交配した場合、当然、水稲には陸稲が持っている不良形質が子に表われる。そして、その組み合わせが遺伝的に固定してしまってからだと、その不良形質の除去は難しくなってしまう。しかし、遺伝子の分離が激しい若い世代のときなら不良形質は流動的なので、そこに別の優良品種を加えれば、取り除きやすくなるという考えである。

 


 彼の育種法は、当時は「型破り」という評価だった。よい系統が見つかると、育成途上の未固定系統でも構わず、さらに交配を重ねる。また耐病性に優れた品種育成には、陸稲をはじめ、多くの外国種を交配親に用いることもあったのだ。そのため、「外国稲の遺伝子を組みいれ、日本稲の血を汚した」との非難を浴びたこともあったという。

 しかし、彼が育成した実績をみれば、その合理性に基づいた育種法が、日本の稲の改良、ひいては稲作の発展に大きく貢献したことは明確なのである。
 この偉大な先人の功績があるからこそ、日本晴の育種を進めた香村たちが、当時ですら「常識破り」という育種法を推し進めることを可能にしたといっても過言ではない。
 岩槻は後輩たちにこんな言葉を伝えている。
「育種をやろうとする者は、2年ぐらいは真っ黒になるくらい圃場を回れ。どの稲でもひと目みれば、なんの品種か分かるような観察眼を養え。そして、一株の稲をみて、これが将来使えるようかどうかの判断をつけられるようになれ」と……。

2度も「九死に一生を得た」日本晴

 日本晴の育成には、このユニークかつ果敢な育種法をもってしても、解決できない問題もあった。それが時間との闘い。普通の圃場での育成では、品種を固定するのに最低でも10年という年月が掛かる……それでは、農家の要望に応えられない。逡巡している場合ではないと、香村たちがとったのが世代促進法だったのである。
 

試験田における日本晴
 温室を用い、初期世代において、1年間で2~3回の世代交代を進めることに。しかし、いうのは簡単だが、実際の作業においてはいろいろなトラブルを経験することとなった。
 昭和32年に愛知県農試は、10㎡のにわか仕込みのガラス温室を作り、そこでの世代促進作業を図ったのである。しかし、換気が十分行なわれなかったため、稲は一酸化中毒を起こし、あえなく失敗。そこで急遽、国立農事試験場(現・農業環境技術研究所)の世代促進用温室の模した150㎡の温室の建設に着手。同年中には完成みている。
 香村と中心とする育成チームは、翌33年1月からこの温室を利用して、早速世代促進の作業にかかっている。前年に交配した120種の組む合わせのうち、3組を選ばれ世代促進が行なわれたが、そのなかにヤマビコと幸風の組む合わせが入っていたのである。
 

 そして翌34年5月までに、第4世代まで世代促進が図られ、第5世代からは旧来の圃場に移植しての育成に戻すことに。2年間で5世代の栽培が行なわれたのであるから、3年分時間が節約されたことになる。
 しかし、必ずしも世代促進が順風満帆に進んだとはいい難い。温室ができたからといって、簡単に稲が育つわけではない。理論では分かっていても技術的には不慣れで、管理が上手くいかず、低温や日照不足などで、採種がまともにできないこともあったようだ。

 特に第4世代はひどく、次の世代に必要となる20粒以上のモミがついていた穂は、全体の10%程度だったという。そして「この10%以外は廃棄」という判断がいったん下ったが、第5世代として作る系統数があまりにも少なくなってしまうため、20粒はついていなかったが、比較的ましなものを、あえて拾い上げたのである。実は、この中にのちの日本晴となる系統が入っており、まさに九死に一生を得たのであった。

日本晴の米袋(イメージ)
 その第5世代は、昭和34年に温室から圃場へ移されて栽培されたが、この年9月26日、愛知県は猛烈な台風に見舞われている。伊勢湾台風である。最大瞬間風速60mという風が吹き荒れ、試験圃場の稲はほとんどが茎や穂が痛めつけられてしまっていた。また強稈で最後まで倒伏しなかった稲もあったが、それらはかえって穂やモミが飛ばされるという被害にあったのである。
 その中にあって、のちに日本晴を出した系統は、早生を目標としていたので成熟が進んでおり、穂が重くなっていたため早めに倒れ、被害が軽く済むという結果に。日本晴は1年で2度も命拾いするという、強運を発揮したのである。
 その後、第7世代に入ると、日本晴は各地の農試へ現地適応試験に出され、耐病性、多収性、耐肥性などが細かく調査され、概ね好評を得ることに。
 そして昭和38年に、第8世代で奨励品種に採用。世代促進法適用第1号品種の栄誉を勝ち取り、わずか6年で愛知県の農家の期待にも応えることになったのである。
 






食味の嗜好も千差万別
コシヒカリとは違う食味の米があっても良い 

世代促進温室における育種風景
 日本晴が第1号になった温室を使った世代促進育種法は、現在、愛知県を含め各県の農試で定着している。また、品種改良においては、耐病性が高い、味が良い、多収など特定の有用な形質に対応するDNA配列(DNAマーカー)の有無を調べ、品種選抜に掛かる手間と時間を効率化するDNAマーカー育種法なども開発されてきた。
「世代促進の技術革新により、短期間で品種育成ができるようになりました。しかし、愛知県農試の伝統ともいえる、若い世代からかけ合せていくという大胆な交配は減っています。現在では、世代促進温室を用いて、ある程度固定された個体をDNAマーカーによって選抜するシステムが主流となっています。育種方法も時代とともに変化していっているということです」
 

  愛知県農試も育種方法の時代変化に乗り遅れることなく、世代促進温室、DNAマーカーなどを駆使しながら、日本晴に変わる優良品種、大物品種になりうる品種を育成しようと、試行錯誤が繰り替えされてきたのである。
 しかも、愛知県農試ならではのユニークで独特な品種育成のスタンスをとりながら……。それは時流に流され、食味ランキングで特Aをとることだけに腐心することがないことにある。もちろん良食味であることは念頭に置いているが、そのアプローチの仕方が他の地方の農試とは違っていたのだ。

試験田における「あいちのかおり」
「日本晴は、つい最近まで食味ランキングの基準米であったことを見ても、食味に関してもある程度の実力があったといっていいと思っています。ただ現在は、コシヒカリやひとめぼれなどに代表されるように、モチモチしており、粘る低アミロース米がブーム。それが良食味の基準になっています。しかし流行りは変わるものですし、食味の嗜好も個人によって千差万別であってしかるべき。今の若い人の中には、〝あまり粘り過ぎる米は好みではない〟という人もいます。コシヒカリとは異なり、噛み応えがある程度あって、ふくよかな旨味が口の中で広がるという良食味米があっていいと思っています」
 杉浦主任研究員は、こう熱く語っている。そこで彼を含め愛知県農試が着目したのが、ハツシモ(昭和25年に品種登録)だった。大粒でふくよかな旨味は、以前西日本を代表する大物品種だった旭の血を色濃く受け継いだもの。東京などでは「幻の米」ともいわれたが、岐阜県ではいちばん多く作付けされている、岐阜を代表する銘柄米。硬質米で、冷めても腰がしっかりとしており、コシヒカリは粘り過ぎるという人には、ピッタリの良食味米といわれている。

 愛知県農試では、このハツシモを母本に、コシヒカリの系統も入ったミネノアサヒを交配させたあいちのかおりを、昭和52年にデビューさせている。現在では、愛知県内の全作付面積の約4割を占め、コシヒカリを圧倒している。また、学校給食などで定番の米として認知されており、県内では知名度が非常に高い品種となっている。
 


あさひの夢は、愛知県農試の一つの完成形といえる品種

 しかし、このあいちのかおりや日本晴は、縞葉枯に抵抗性を持っていなかった(現在はあいちのかおりは縞葉枯、穂いもち抵抗性を付与したあいちのかおりSBLに)。縞葉枯病は、ヒメトビウンカが媒介するウイルス病。1960年代には、被害面積が60万haにも及ぶ大発生があった。また1970年代後半からは、再び関東を中心に猛威をふるい、愛知県でも大きな被害を受けている。そのため縞葉枯病抵抗性品種は、各県農試の重要な育種目標となったのである。愛知県農試でも、1964年より縞葉枯抵抗性品種の育種を開始している。

日本晴育種記念碑

 愛知県農試では、この育成にあたっては、母本に中国農業試験場で育成された中間母本「St.No1」を用いた。これは、パキスタン産の「Modan」を母本としている品種。育成当初は穂枯れ、熟色不良、低品質など様々な劣悪形質が随伴したため、実用品種育成には多大な労力と時間がかかっている。
 世代促進温室を利用した育種年限の短縮、保毒虫による抵抗性検定を経て、ようやくしまはしらずなどが品種登録されたが、残念ながらこれらのほとんどは、不良形質を伴っており、とても良質とはいえなかった。
 愛知県農試の育種の大きな特徴の一つに、耐病性に優れた品種育成が挙げられる。これも大育種家であった岩槻信治の時代からの伝統でもある。縞葉枯抵抗性だけでなく、いもち病、ツマグロヨコバイなどの抵抗性に取り組んでおり、現在では一つの抵抗性だけでなく多数の病害虫に抵抗性を持つ複合抵抗性品種の育成にも力を注いでいる。
 

 縞葉枯病抵抗性品種の育成は、そんな愛知県農試のプライドをかけた闘いでもあった。このため、さらに反復・戻し交配を行った。数千に及ぶ系統を育成したが、容易に不良形質は解消されなかったのである。しかし、粘り強く育種を進めるのも愛知県農試の伝統。その結果、育成開始から18年後の1982年に不良形質が取り除かれた星の光が品種登録されることに。そして青い空、月の光などと続いた。
 それらの縞葉枯病抵抗性品種の中では、月の光は強稈で、葉が直立し草型は極めて良く、外観品質も良好な品種となった。そのため、1980年代後半から1990年代初めにかけて作付面積を伸ばしていく。しかしコシヒカリなどの良食味米が市場を席巻してきたのに対し、残念ながら月の光の食味がやや劣ることから、作付面積は減少していったのである。
 この月の光の縞葉枯抵抗性と強稈で草型が良好な血を受け継ぎ、あいちのかおり由来の旭系の食味を持つ品種として、平成11年に育成されたのがあさひの夢であった。
 現在、県内では全作付面積の1割程度に留まっているが、さっぱりとした味わいの評価も高く、また耐病性、耐倒伏性にも優れ、しかも多収ということもあり、3拍子揃った米として、群馬県では作付面積が1位になるなど関東以西でも作付面積を伸ばしている。
 あさひの夢は、旭系の食味を追求し、かつ耐病性品種の育成に力を注いできた愛知県農試の一つの完成形ともいえる品種なのである。

あさひの夢 米袋(イメージ)
 だからといって、育種を担当している杉浦に留まっている時間はない。県内の農家の要望は、果てしなくあり、またカメムシ被害という新たな害虫対策、そして温暖化による高温対策などを解消する品種の育成が急務になってきているのだ。
「もちろん、県内の農家の要望すべてを一品種で満たすことはできません。しかし、米農家あっての育種担当。なるだけ、一つひとつの要望を集約できる、要は優良品種を育成し、それに応えたいと思っています、それが私たちの仕事ですから」
 こう杉浦は、力強く語っている。そして、それを可能にする伝統と、財産が愛知農試にはある。それは、先人たちが残した知恵であり、また日本各地に留まらず世界各地から集め、保管されてきた稲の種なのである。
「多くの遺伝資源を持つことで、様々なバラエティに富む品種育成することができると思っています。そういう意味で、愛知県には偉大な財産があり、活かしていかなくてはならないと感じています」
 稲は、種がなければ、たわわ実を結ぶことができない。その種を育てることこそが、まさしく育種の仕事なのである。
 




【文中敬称略】画像提供:愛知県農業総合試験場

参考文献:『こめの履歴書 品種改良に賭けた人々』(家の光協会出版)