ヒノヒカリ誕生秘話 耐性や栽培特性より、「コシヒカリ」と同等という食味へのこだわりが、西の横綱「ヒノヒカリ」を育てた!

 首都圏の消費者には、「良食味米の産地といえば北陸から東北、そこに最近、北海道が加わった」というイメージがある。こと九州に関しては、「暑いから、稲作には向かない」と感覚的に捉えている人も多い。それもそのはず。20年ほど前まではお盆時期に出回る宮崎・鹿児島の「コシヒカリ」以外は、ほとんど目にすることさえなかったのである。
 そして昭和60年頃までは、「九州の米は鳥さえも食わない」とまでいわれており、良食味米がほとんどなかったのも事実だったのだ。そのイメージを大きく変えたのが、宮崎県総合農業試験場で育種され、良食味米として九州や四国で作付面積を伸ばしていった「ヒノヒカリ」なのである。

極早生、早生の交配から、中生の個体が!
それが「ヒノヒカリ」へとつながっていく。

ヒノヒカリの種子圃場

 ヒノヒカリのデビューは1989年(平成元)。九州では、温暖な気候を活かして二毛作が行なわれているが、それまでは、冬作収穫後(6月)に作付けできる各県の主流品種は、「ニシホマレ」、「日本晴」、「ミナミニシキ」などであり、食味は中中~中上ランク(1(上上)~9(下下)の9段階評価)。良食味米といわれる上中以上のランクの品種が、ほとんどなかった。
 宮崎県でも、二毛作には向かない3月に作付け、8月に刈取りする早期栽培の「コシヒカリ」のみが良食米の評価を受けていたに過ぎない。
「コシヒカリ」は極早生であり、温暖な宮崎では、普通期の6月の作付けすると、稈が伸び過ぎて倒伏しまい、まともな収量を得ることができなかった。そのため生産者の目も、食味よりも二毛作ができ、多収量だった「ニシホマレ」のような品種に向いていたのである。
 しかし、1969年(昭和44)に自主流通米制度ができ、新潟コシヒカリをはじめ、「あきたこまち」、「ひとめぼれ」などの良食味の銘柄米が脚光を浴びるにつれ、多収であっても味の落ちる米は政府米として出荷されるだけで、自主流通米の市場では相手にされなくなっていったのである。

 

宮崎県総合農業試験場 作物部 押川副部長

 しかし、1969年(昭和44)に自主流通米制度ができ、新潟コシヒカリをはじめ、「あきたこまち」、「ひとめぼれ」などの良食味の銘柄米が脚光を浴びるにつれ、多収であっても味の落ちる米は政府米として出荷されるだけで、自主流通米の市場では相手にされなくなっていったのである。
 また、早期収穫の優位性で高い価格で販売されていた宮崎産コシヒカリだったが、収量が少ないだけでなく、8月のいちばん暑い時期に収穫するため劣化が早く、保存すると食味がおちる傾向にあった。
「新米時期の宮崎コシヒカリは、年をまたいだ新潟コシヒカリより確かに美味しかったかので、高価格で流通していましたね。しかし普通期に収穫される新潟産などの「コシヒカリ」の保存技術の進歩したことで、食味に差がなくなってしまい、その優位性が失われていったのです」
 こう宮崎県総合農業試験場・作物部副部長の押川純二は、当時の状況を説明している。
 そのため普通期に作付けができ、「コシヒカリ」と同等の食味をもつ品種の育種を望む声が、生産者からは高くなっていった。その育種の中心となったのが、国の組織である九州農業試験場から宮崎県総合農業試験場に出向し、育種科長を務めていた八木忠之だった。
 はじめは、従来から九州で主流だった中生の安定多収品種である「ニシホマレ」、「ミナミニシキ」などを、「コシヒカリ」に交配する方法がとられた。
「しかしこれらの後代には、一つとして実用に供試できる系統は選抜できなかった」と八木は後の著作の中で記している。
 
交配に取り組む試験場職員
 そこで彼は、良食味育種においては一歩進んでいる、他の地域の品種を交配する道を選んだのである。その品種の一つに、「黄金晴」(愛知40号)があった。
 九州内では、「コシヒカリ」は極早生品種、掛け合わせた「黄金晴」は早生品種である。当然、その掛け合わせから生まれる品種は早生になると思われがちだが、彼は、経験則から導き出した原理により、必ず九州では中生や晩生の出穂特性をもつものが得られると確信して交配に臨んだ。1979年から交配が始まったが、彼の思惑通り、後代からは九州では中生にあたる個体が多数発見されることに。これにより、この交配から生まれてくる品種は、普通期に十分に栽培されできることが確認されたのである。














 

食味にこだわり、栽培特性の評価に関しては
ゆるく行ってもらえるように理解を求めた!

 中生で栽培できることが確認できれば、あとは食味の問題である。そのためコシヒカリ/黄金晴の後代となった雑種集団の選抜はゆるく行なわれ、多めに個体が選抜されてことに。

食味試験を行なっている光景

そしてこの選抜には、小さなビーカーで実際に炊飯し、その光沢の程度で食味を検定する炊飯米光沢検定法(テカリの良いものほど食味も良い)を採用した。「今まで試みることがなかった、この選抜方法を2年間実施しました。倒伏などの栽培特性の評価を考えない、食味を優先した選抜方法といえますね」と、押川は説明している。それほどまでに、八木は食味にこだわったのである。
 その結果、選抜されたいずれの系統も食味のレベルは高く、なかでも後に「ヒノヒカリ」となった「み系451」という番号が付けられた系統の食味は、最上級のコシヒカリと同レベル。深みのある光沢をもち、強い粘り気、味わいでも遜色なかったという。その当時、育種に携わった人間は「これ、いけるんじゃないか」と異口同音に称賛した。
 

 そして、み系451は「南海102号」という地方系統名が付けられ、1986年(昭和61)から関係県(九州各県)に配布され、試験栽培が行なわれることに。
「南海102号」には耐倒伏性が従来品種より低いという欠点がありました。また、いもち病に関しても十分な判定ができていない状態での配布。栽培特性の評価で、配布初年度で打ち切りにならないように、各県の担当者には八木科長から〝せっかく、良食味の育種がなされたのだから、その辺は甘くみてくれ〟と理解を得るようしたのです」と押川は、当時を懐かしむように語っている。

県内の田園風景
 その熱意が伝わったのか、各県の担当者からは「抵抗性のレベルは低いけど、実用に関しては問題ない」という評価を得て、試験栽培が続けられるようになったのである。
 宮崎県においても、都城普及センター内の圃場で試験栽培が行なわれていた。いもち病が大量発生した1988年のこと。「南海102号」は、同時栽培されていた「黄金晴」よりも被害が少なかったことが報告されている。また、その年の稲の外観品質(見栄え)は極不良であったが、食味は農試産のものとほとんど変わらなかったことなどから、八木をはじめとする関係者は、「これなら世に出ても、良食味の品種として十分耐えうる」という自信を深めていったのである。
 

「ヒノヒカリ」命名に関しては、
悲喜こもごものエピソードが語られている

 1988年(昭和63)~89年(平成元)には、実際に宮崎県の生産者の水田を使った試作栽培が行なわれている。
「九州では、耐倒伏性が高い品種に慣れていたため、一部の生産者からは〝作りにくい〟という意見も上がりました。しかし、できた米を食べたら評価は一変。〝これからはこの米しかない〟となっていったのです」と押川は語っている。
 そしてその評価に、八木をはじめとする育種担当スタッフ一同が、「我が意を得たり」と、満足気な笑顔を浮かべたことは想像に難くない。
 またこの試作では、多収の従来品種に比べ、収量が少なかったことも確かだったが、一部の肥沃地の水田では、多収品種と変わらないデータも上がっている。栽培改善などの指導しだいで、収量も期待できることが確認された。
 そして1989年、宮崎県だけでなく九州の生産者の期待を背負った良食味米「南海102号」は、九州各県(沖縄県を除く)の奨励品種に指定され、「ヒノヒカリ」として品種登録されたのである。


宮崎県総合農業試験場の外観

「ヒノヒカリ」の命名には、いくつかのエピソードが存在している。
 品種の命名権は育成地である宮崎県にあった。公募によって、各地から寄せられた名前の中から、宮崎県総合農業試験場スタッフによって人気投票に掛けられることに。その結果、1位になったのは「イチマルニ」という名前であった。これは、すでに「南海102号」として育成されてきた期待の表れといえる。

 しかし「冷静になって考えてみると5年、10年と年を経て、子や孫の代にこの名前が通用するだろうか」ということに危惧が、育種スタッフの間で生まれたという。「南海102号」の使命は、良食味米として暖地、温暖地の米のイメージを一新することにある。そのためには、生産者や消費者に広く愛される名前でなくてはならないと、考えたのである。そして、ほかの応募された名前の中から「ヒノヒカリ」を選ぶことになる。
 ヒノヒカリを漢字表記にすると、「日の光(陽光)」となり、まさに育成地宮崎のイメージにピッタリ。また、ちょうどその当時、宮崎県では日照の長いことを活かした農業を推進する「サンシャイン農業運動」が行なわれていた。「ヒノヒカリ=サンシャイン」であるので、「ヒノヒカリ」を宮崎県農業の旗頭にという思いも込められたのである。
 

田植え風景

 「ヒノヒカリ」の奨励品種の採用にまず動いたのが、地元の宮崎県と熊本県。そして、それにつられるかのように九州の他県(沖縄県除く)も手を上げ、平成2年には九州全県で作付けが行なわれている。その中で、作付面積がいちばん多かったのは福岡県で、9033ヘクタール。それに続いたのが熊本県で、8999ヘクタールとほぼ同面積だった。育成地であった宮崎県は、わずか1671ヘクタールに留まっていた。
 宮崎県の普通期水稲を作付けしている水田面積は、1万ヘクタールに過ぎない。一方、同時期に奨励品種採用を決めた、熊本はその4倍の面積の水田があった。その割合からすれば、特に宮崎の作付面積が少なかったわけではないといえる。
 しかし、熊本県も奨励品種採用に最初に手を上げ、作付面積も多かったことで、皮肉にも「ヒノヒカリ」は熊本県で育種され、命名も〝ヒゴ(肥後)ノヒカリ〟と勘違いされることもあったという。
 そのエピソードを語ってくれたときの、押川の苦笑いした顔が印象的だった。宮崎県総合農業試験場の育種当時の苦労を思い浮かべ、思わず悔しさが顔に出たのかもしれない。
 




良食味米の西の横綱「ヒノヒカリ」の後継をめぐり、
九州は、新品種群雄割拠の時代に!

 平成2年から九州各地、四国、中国地区での普及活動を進めた結果、平成7年には13県で栽培されようになり、ヒノヒカリの総作付面積は10万ヘクタールを超え、西日本を代表する基幹品種に成長していったのである。

コンバインによる収穫風景

 その後もその勢いは止まらず、全国の水稲品種収穫量割合では、コシヒカリ36.7%、ひとめぼれ9.6%につぎ、9.5%で第3位にまで登りつめている。そして県別の作付品種の割合を見ると、大分県の75%を筆頭に8県でヒノヒカリはトップの座に君臨している(以上、米穀安定供給確保支援機構「平成25年産水稲の品種別作付動向について」)。
 また、独自の品種育成を行っていない大分県では、「ヒノヒカリ」を大事に育て上げ、食味ランキングでも最高ランクの特A(日本穀物検定協会)を獲得。「ヒノヒカリ」生産量では、全国第1位になっているである。
 そして「ヒノヒカリ」は、〝良食味米の西日本の雄〟として、関西だけでなく首都圏でも知られるようになっていき、当初の育種目標だった、鳥も食わないといわれた九州の米のイメージを、まさに一新したのだ。
 

 しかし今は、東の横綱といわれる新潟コシヒカリとならび、西の横綱として君臨する「ヒノヒカリ」が盤石であるかといえば、そうともいえない面も見え隠れしている。
 梅雨明けから始まる猛暑、長引く残暑という温暖化に見舞われている近年、「ヒノヒカリ」の品質が落ちてきている――具体的にあげると背白などの白未熟粒(シラタ/玄米の中心部が白く濁った粒)が増えているというのだ。
「「ヒノヒカリ」は高温耐性がなかったということなのでしょうが、今となっては、という状況なのです。そのため、各県の農試や九州農試が「ヒノヒカリ」と同等の良食味をもち、高温耐性がある米の育種に取組み、実際に新品種として徐々に作付けされるようになってきています」と押川は、こう今の状況を説明している。
 「ヒノヒカリ」の育種を担当し、後に九州農業試験場水田利用部/稲育種研究室長になった八木忠之は、「ヒノヒカリ」が脚光を浴びだした頃から、今の状況に予測するような興味深い文章を記している。「今後の「ヒノヒカリ」を含めた九州の米のあり方について」以下のように言及していたのである。

バインダーによる収穫風景

「九州において、安定した稲作が今後とも営まれるためには、消費者に素直に喜ばれる美味い米を安定生産し続ける必要がある。美味い米の安定生産は、ひと品種だけで解決するものではない。高温登熟の早期水稲は、高温による収穫劣化を防ぐため、収穫直後から乾燥・調整に注意を払い、乾燥登熟の普通期水稲は、収穫前の圃場過乾燥による食味低下を防ぎ、収穫後の乾燥・調整に注意する。そのため、適地適品種、適期収穫が可能となるよう、きめ細かく良食味米品種を揃えていく必要があろう。そのためには、新たな九州の特徴を活かした稲品種の開発が必要なのだ」
 彼は、「ヒノヒカリ」だけではなく、良食味を維持しながらも、気候の変化にも対応できる適地適品種の育種を、次の目標に定めていたといってよい。
 

 この点に関しては、宮崎県総合農業試験場で今は育種に携わっている押川も同意見だ。
「「ヒノヒカリ」に頼らず、九州でも適地適品種を考え、もう少し品種の分散が行なわれてもいいと思っています。そのため、九州農試では「にこまる」、熊本では「くまさんのちから」、そしてうちでは「おてんとそだち」などといった品種を、ヒノヒカリに変わる品種としてデビューさせています。しかし、なかなか作付面積を伸ばすまでいっていないのが現状ですね。「おてんとそだち」の食味は「ヒノヒカリ」と同等で、栽培特性がいい。生産者もそれを分ってはいるのですが、売る側はブランドと確立し、今も売れている「ヒノヒカリ」を手離さない。だから生産者としても、「ヒノヒカリ」にこだわらざるを得ないという面もあるのでしょうね」
 今、九州の水稲作付け事情を見ると、西の横綱「ヒノヒカリ」を倒すべく、次代を担う品種がしのぎを削り合っている群雄割拠の時代といっていい。しかし、大相撲の白鵬と同じように、一時代を築いた「ヒノヒカリ」には、まだまだ及ばないのが現状のようだ。

【文中敬称略】 画像提供:宮崎県総合農業試験場